Wednesday, November 12, 2008

水村美苗、英語、はてな

水村美苗「日本語が亡びるとき」を梅田望夫氏が紹介した記事について侃々諤々の議論が持ち上がっている。梅田望夫氏の元記事、はてブの釣られ具合、増田による元記事の解説、梅田望夫氏が切れた、とか。一連の議論は、梅田望夫氏らによる壮大な釣りであれば、この流れはとてもよくわかるのだが。そうでなくて、梅田望夫氏が本気でこんな切れ方をしているのなら、ちょっといかがなものかと。
はてぶのコメントには、バカなものが本当に多すぎる。本を紹介しているだけのエントリーに対して、どうして対象となっている本を読まずに、批判コメントや自分の意見を書く気が起きるのだろう。そこがまったく理解不明だ。
漫才を見に来ている客に対して、漫才師が「俺ら、そんなにおもろないのに、お前ら、よう笑うなあ」とあきれる態度と同じ。梅田望夫氏は、ネットについては、とてもいい話をする人だと思っているが、残念ながら何についても見識が深いとは言えない。そういうこと。

さて、水村本のあらすじを増田の解説で想像する限り、感傷的な煽りが主題なのかなと思える。ただし、その気持ちはわかるような気がする。
日本という「現地」に帰属しつつ他方で「普遍的なもの」とつながっているという点では「外国人」のような存在、すなわち、「在地の普遍人」というでもいうべきメンタリティーを有している人間にとっては、今回の水村さんの本を読んで刺激を受けるのだろうな、ということだ。
増田のこのコメントは、よくわかる。しかし、「在地の普遍人」って単に教養人と言い換えてもよくないか。外国語、しかも自分の母国語からできるだけ離れた文化で、「国語」として必須のものが備わっている外国語を長い間学んできた人間にとっては、自分の言語や文化を普遍的なものとの比較対照において相対化する、という態度は持っていて当然のものであり、格別にどうこう言われるものではない。

とか何とか考えていたら、増田もちゃんと書いてるな。
「現地語」のみを読み「現地語」のみで語る、他のものには触れないし読まない。そうなると、文学が、そして、それによって表現される知性が、衰退する、という反応が出てくるのではないか。
ま、早い話が「日本語しか知らない人は知的でありようがない」ということ。できるだけ日本語、日本文化とは異なる言語や文化に触れることは、知的であるためには必須。英語じゃなくてもいいけど、中国語や韓国語はNG。中国語は日本に近すぎるし、韓国語は「国語」としての力が弱すぎる。フランス語、ドイツ語、イタリア語、スペイン語あたりなら何でもいいな。アラビア語、ロシア語とかも悪くない。なんだ、大学の第二外国語か。

水村ご本人のインタビュー
「中途半端な国民総バイリンガル化を求めるより、少数精鋭の二重言語者を育て、翻訳出版の伝統を維持する。作文を書かせるより、古典をたっぷり読ませる教 育を積む。それが日本語の生命を保つ現実的な方策。もちろん小説家は密度の高い文体を全力で築く。さもなければ日本語はやがて亡(ほろ)びゆく。私たちは 分かれ道に立っています」
なんか、激しく同意するところと、なんじゃそらというところが混じっているコメントだな。まず、小説家はこの際どうでもいい。生活や仕事に役立つか、という視点からのみ考えるなら、「中途半端な国民総バイリンガル化」とか「作文を書かせる」とかの方が役に立つ。まあ、読書感想文みたいな作文ならいらないけど、自分の意見をきっちり書くための訓練としての作文はむしろ必要だろう。このあたりは、言うまでもない。

しかし、日本語が「国語」として文化を保持するには、あるいは、外国人が学ぶ価値を持った言語だと思えるようであるためには、逆に翻訳文化の育成、古典教育は大切だ。ごくわずかな人に対して、でいいんだけど。


ああ、なんだ。ごく当たり前のことを言ってるだけじゃないか。教養教育を絶やすな教養に触れる機会を増やせ。大半の人には無駄でも、ごくわずかの人が教養人になるためのはしごとなるから。外国語教育を怠るな。外国語を学ばない者は自国語をも知らない、と誰か言ってたな。古典を読め。古典は長期間にわたってふるいにかけられた、人類の叡智の結晶である。エリート教育を大切にしろ。外国語を深く理解することは誰にでもできることではない。

ふと思ったのだけど、ネットだけで世界が完結している人たちがかわいそうなのは、永井均とか佐伯啓思とか、日本語で普遍的なものを書けるが、ネットにはほとんど現れてこない人の作品を読む機会がないこと。私にとってはだけど、ネット上のどんなテキストを読むよりも、彼らの作品は知的興奮をもたらしてくれる。

ものすごく忙しいのに、ついつい長文を書いてしまった。

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