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金曜日, 2月 27, 2026

【AI討論】データ主義をめぐる議論--ハラリとチームみらいの危うさに関するメモ


データ主義の定義とハラリの位置づけ

ユヴァル・ノア・ハラリは、2016年の『ホモ・デウス』において「データ主義」(Dataism)を、データとアルゴリズムの流れを宇宙の究極価値とする新しい宗教形態として提示した。そこでは人間の主観・感情・自由意志は信頼できないノイズとされ、アルゴリズムによる処理が真実を決定する世界観が描かれる。ハラリ自身はこれを積極的に推奨する立場ではなく、「これが到来する」と予言する観察者としての位置づけである。対立軸は明確であり、ルネサンス以来の「人間主義」(ヒューマニズム)——人間の経験や物語を価値の中心とする思想——そのものである。ルネサンスが神中心の中世を否定して人間を主役としたように、データ主義は人間中心主義を否定し、人間を「生化学的アルゴリズム」の一部に還元する。

人間主義概念の大雑把さへの批判

これに対し、議論では「人間主義」という括りが近代思想全体を大雑把に一括りにしすぎている点が指摘された。資本主義は人間の欲望を原動力とするものの、効率と利益を優先する非人間的な側面が強く、単純に人間主義の変種と呼べるかは疑問である。思想史を精査すると、ドイツ観念論からロマン主義、論理実証主義、現象学・言語哲学へと、常に直前の思想を否定しながら交代が繰り返されてきた。データ主義もこの連鎖の中に位置づけられるべきであり、「人間主義」という広範なレッテルでは思想の細かな交代劇が失われてしまう。

ネオ実証主義という代替概念の提案

ここで提案された代替概念が「ネオ実証主義」である。従来の実証主義が観測事実を重視したのに対し、ネオ実証主義は人間の解釈・意味づけを完全に排除し、データとプログラム(アルゴリズム)に判断を委ねる点が特徴である。これは「雰囲気」で済ませていた事象を、きっちり計測・データ化してAIに自動処理させる流れにほかならない。コンピュータ開発の現場ではデータとプログラムが不可分であるため、「データ主義」という呼称は曖昧であり、むしろ「アルゴリズムによる自動判断主義」と表現する方が技術的本質を捉える。

チームみらいのデジタル民主主義との関連

このネオ実証主義の実践例として、チームみらい(安野貴博党首)の「デジタル民主主義2030」プロジェクトが挙げられる。同プロジェクトはAIによるブロードリスニングで国民の声を自動抽出、政治資金のリアルタイム公開など、人間の政治的バイアスを最小化し効率化を目指す。しかしここに、1世紀前の論理実証主義が犯した根本的誤りが再現されている。

論理実証主義の誤りの再現と科学哲学からの批判

論理実証主義(ウィーン学団、カルナップ、エイヤーら)は日常言語の曖昧さを排除するため記号論理・形式言語を提唱し、哲学的問題を言語分析に還元しようとした。ところが、クワインの全体論、クーンのパラダイムシフト(1962年『科学革命の構造』)、ポパーの反証可能性などの科学哲学により、データや観測の取り方・解釈・枠組みに設計者の価値観・思想が不可避的に介入することが明らかになった。同じデータでもパラダイムが変われば意味が根本的に変わる——物理学の歴史(ニュートン力学→相対論→量子力学)がこれを証明している。したがって、「データとAIで民意を一義的に抽出できる」「人間の介入を排除すれば中立になる」という主張は、科学が「一つの永遠の真理」を持つという幻想を繰り返すに等しい。論理実証主義が「科学は累積的進歩」と楽観したのと同様、データ主義/ネオ実証主義も恣意性を排除しようとする行為自体が最大の恣意性であることを見落としている。哲学・科学史の入門的知識さえあれば、この誤りは「常識」として認識可能であり、学部生レベルで十分理解できる内容である。

結論

本議論はハラリの文学的表現を技術・哲学の観点から解体し、データ主義の本質を「ネオ実証主義のAI時代版」と位置づけた。人間主義への大雑把な批判、言語の曖昧さ問題、科学の非累積性という歴史的教訓を踏まえれば、「データが神」という神話はすでに時代遅れであることが明らかになる。実務的なデジタルツールの活用は一定のメリットを持つものの、その根底にある思想的前提は、20世紀前半の過ちを現代的に再演しているにすぎない。

追記

「ネオ実証主義」は造語。まとめ記事にする前、実際の議論では「新実証主義」という言葉を使ったが、これは別の概念として存在する。また、「ポスト実証主義」とも異なる。

なぜこんな不格好な造語を作ったか。ハラリの「データ主義」は批判対象であるにしても、言葉として不適切であると考えたから。データ主義は「データがもっとも重要なものである」とする。しかし、ここでの「データ」とはシステムやプログラムと対になる意味での「データ」ではない。そのため、「データ実証主義」という用語は不適切だと考えた。

もう一つ。見苦しい言い訳をしておくと、ハラリの概念もチームみらいの政治的主張もまだまだ不勉強である。この記事には、単なるメモ以上の価値はない。

日曜日, 12月 02, 2018

佐藤葬祭佐藤信顕氏に反論する

香典の問題は、問題のある振る舞い(おもに「出さない」「少ない」かな)を見たからと言って、軽々に批判すべきではない。お金は、持っている人は持っているが、持っていない人は本当に持っていない。また、多少持っていても、使い道が完全に決まっている人もいれば、老後の不安が強くて、財政的には出せても心情的には出せない人もいる。このあたりは、察するしかない。

佐藤氏は「香典は任意である」と言うが、実際には難しいケースも多くないだろうか。個人的には、親戚関係の葬式に出たのが学生時代で最後、あとは弔電で間に合わせたので、大きなことは言えない(以前の同僚が若くして亡くなったときは、出席して5000円を包んだ)が、手ぶらで行って記帳すれば、何か言われそうなことは容易に想像できる。「できる範囲で故人を送ってあげようよ」という主張にはまったく賛成だが、それが本当に許されるのか。私は許したいが、ほかの人がそうであるかはよくわからない。逆に、香典の少なかった人、持ってこなかった人の陰口を叩く人が結構な数いそうなのだが…。

「自分の損得だけを考えて、人のために何かをするのが尊いという考え方を持たないと、非常に危険な状態に陥る」という考え方には諸手を挙げて賛成したいが、そこに「世間で常識とされる金額を香典に包むべき」という考え方がない場合に限る。もし「世間で常識とされる金額を香典に包むべき」という考え方が含まれていれば(佐藤氏の考え方には含まれていない)、とても賛同するわけにはいかない。

もうひとつ、動画の最後に「一人一人の生き方は自由なのだが、そのぶん結果の責任も全部自分で負わねばならないのは非常に怖い」と言っているが、これはワシ的にはまったく受け入れられない。非常に強力な同調圧力である。モダンあるいは近代は、「自由から生じたことの責任は自分で負う」のを基本としている。自分の行為の責任を自分で負うのを基本としつつも、どう助け合っていくのかを西欧では何世紀にもわたって考えてきた(遅くともカント以降)。このような圧力に負けないために効果的な反論をしようと思えば、わかりやすい方法として、葬儀も香典も否定しなければならなくなってしまうのが残念だ。

ワシ的には、ワシの葬式は香典不要(受け取らない)としたい。あるいは、選択肢を出す。

  1. 香典(金額自由、1円以上、香典返しはしない)
  2. 献花(菊でなくてよい)
  3. SNSなどに写真付きで投稿(ワシの写真を撮って「アホ」「クズ」と書いてあっても可)
  4. 手紙(長さ自由)
  5. スピーチ(おもしろくないものは、ワシが棺桶の中から鐘をひとつ叩くので即時中止)
  6. 漫才・落語(おもしろくないものは、ワシが棺桶の以下略)
  7. 歌(下手なものは、ワシが以下略)
  8. 嘉門達夫とエスパー伊東とMr.オクレを呼ぶ

…ワシはいいんだが、親族が嫌がるだろうなあ(苦笑)。

月曜日, 4月 02, 2018

「中動態」は能動性と受動性の中間にある?

(Wikimediaより古代ギリシア語)

能動態でも受動態でもない「中動態」を知ると少し生きやすくなる | 文春オンライン
「力に怯え心ならずも従う――カツアゲや性暴力、各種ハラスメントで顕著ですが、非自発的同意という事態が日常にはゴロゴロある。能動性、受動性という概念にうまく当てはまらない状況なんです」
言語学的には、中動態は「自分に向かって行為を実行する」という意味のものが多いようだ。能動性と受動性の間を考える試みは、意志を重んじる近代までの西洋哲学の系譜とは相容れず、特にハイデガー以降に親和性が高いと感じるが、しかしそれが言語学的な中動態と関係があるのかは考える余地がある。






AI時代の本の読み方