はじめに
最近、AIと延々と議論する時間が増えた。仕事で使うだけでなく、ふと思いついた疑問をぶつけ、返ってきた答えにさらに突っ込む。そんなやり取りの中から、いくつかの考えが自分の中で固まってきたので、ここに書き残しておく。
ちなみにこれはAIが勝手に書いた記事ではない。AIとの会話を素材にして、筆者が自分の頭で再構成した文章である。AIに書かせると聞こえはいいが、結局それを「本当に自分の言葉か」と問い直す作業は人間にしかできない。その意味で、この記事そのものが本稿の結論の実践でもある。
最近、AIと延々と議論する時間が増えた。仕事で使うだけでなく、ふと思いついた疑問をぶつけ、返ってきた答えにさらに突っ込む。そんなやり取りの中から、いくつかの考えが自分の中で固まってきたので、ここに書き残しておく。
ちなみにこれはAIが勝手に書いた記事ではない。AIとの会話を素材にして、筆者が自分の頭で再構成した文章である。AIに書かせると聞こえはいいが、結局それを「本当に自分の言葉か」と問い直す作業は人間にしかできない。その意味で、この記事そのものが本稿の結論の実践でもある。
ユヴァル・ノア・ハラリは、2016年の『ホモ・デウス』において「データ主義」(Dataism)を、データとアルゴリズムの流れを宇宙の究極価値とする新しい宗教形態として提示した。そこでは人間の主観・感情・自由意志は信頼できないノイズとされ、アルゴリズムによる処理が真実を決定する世界観が描かれる。ハラリ自身はこれを積極的に推奨する立場ではなく、「これが到来する」と予言する観察者としての位置づけである。対立軸は明確であり、ルネサンス以来の「人間主義」(ヒューマニズム)——人間の経験や物語を価値の中心とする思想——そのものである。ルネサンスが神中心の中世を否定して人間を主役としたように、データ主義は人間中心主義を否定し、人間を「生化学的アルゴリズム」の一部に還元する。
これに対し、議論では「人間主義」という括りが近代思想全体を大雑把に一括りにしすぎている点が指摘された。資本主義は人間の欲望を原動力とするものの、効率と利益を優先する非人間的な側面が強く、単純に人間主義の変種と呼べるかは疑問である。思想史を精査すると、ドイツ観念論からロマン主義、論理実証主義、現象学・言語哲学へと、常に直前の思想を否定しながら交代が繰り返されてきた。データ主義もこの連鎖の中に位置づけられるべきであり、「人間主義」という広範なレッテルでは思想の細かな交代劇が失われてしまう。
ここで提案された代替概念が「ネオ実証主義」である。従来の実証主義が観測事実を重視したのに対し、ネオ実証主義は人間の解釈・意味づけを完全に排除し、データとプログラム(アルゴリズム)に判断を委ねる点が特徴である。これは「雰囲気」で済ませていた事象を、きっちり計測・データ化してAIに自動処理させる流れにほかならない。コンピュータ開発の現場ではデータとプログラムが不可分であるため、「データ主義」という呼称は曖昧であり、むしろ「アルゴリズムによる自動判断主義」と表現する方が技術的本質を捉える。
このネオ実証主義の実践例として、チームみらい(安野貴博党首)の「デジタル民主主義2030」プロジェクトが挙げられる。同プロジェクトはAIによるブロードリスニングで国民の声を自動抽出、政治資金のリアルタイム公開など、人間の政治的バイアスを最小化し効率化を目指す。しかしここに、1世紀前の論理実証主義が犯した根本的誤りが再現されている。
論理実証主義(ウィーン学団、カルナップ、エイヤーら)は日常言語の曖昧さを排除するため記号論理・形式言語を提唱し、哲学的問題を言語分析に還元しようとした。ところが、クワインの全体論、クーンのパラダイムシフト(1962年『科学革命の構造』)、ポパーの反証可能性などの科学哲学により、データや観測の取り方・解釈・枠組みに設計者の価値観・思想が不可避的に介入することが明らかになった。同じデータでもパラダイムが変われば意味が根本的に変わる——物理学の歴史(ニュートン力学→相対論→量子力学)がこれを証明している。したがって、「データとAIで民意を一義的に抽出できる」「人間の介入を排除すれば中立になる」という主張は、科学が「一つの永遠の真理」を持つという幻想を繰り返すに等しい。論理実証主義が「科学は累積的進歩」と楽観したのと同様、データ主義/ネオ実証主義も恣意性を排除しようとする行為自体が最大の恣意性であることを見落としている。哲学・科学史の入門的知識さえあれば、この誤りは「常識」として認識可能であり、学部生レベルで十分理解できる内容である。
本議論はハラリの文学的表現を技術・哲学の観点から解体し、データ主義の本質を「ネオ実証主義のAI時代版」と位置づけた。人間主義への大雑把な批判、言語の曖昧さ問題、科学の非累積性という歴史的教訓を踏まえれば、「データが神」という神話はすでに時代遅れであることが明らかになる。実務的なデジタルツールの活用は一定のメリットを持つものの、その根底にある思想的前提は、20世紀前半の過ちを現代的に再演しているにすぎない。
「ネオ実証主義」は造語。まとめ記事にする前、実際の議論では「新実証主義」という言葉を使ったが、これは別の概念として存在する。また、「ポスト実証主義」とも異なる。
なぜこんな不格好な造語を作ったか。ハラリの「データ主義」は批判対象であるにしても、言葉として不適切であると考えたから。データ主義は「データがもっとも重要なものである」とする。しかし、ここでの「データ」とはシステムやプログラムと対になる意味での「データ」ではない。そのため、「データ実証主義」という用語は不適切だと考えた。
もう一つ。見苦しい言い訳をしておくと、ハラリの概念もチームみらいの政治的主張もまだまだ不勉強である。この記事には、単なるメモ以上の価値はない。
1人のカリスマ的魅力を持つ人物が政治団体を立ち上げ、国政選挙を目指す。人が集まり、組織化と資金調達が進み、党則も整備される。右腕や信頼の顧問も登場し、党勢は拡大していく。ここまでは順調だ。
ところが、ある日突然、その右腕や顧問が「党首の政治外の問題」を持ち出して辞任を迫り始める。傍目には乗っ取りに見えるが、真意はわからない。結局、党首は党則の外の力でその人物をパージする。これは特定の政党だけの話ではない。日本中のミニ政党で、多少の差異はあれど繰り返されている現象である。
カリスマ政党の本質は「この人に付いていきたい」という感情の忠誠にある。党則は後から付け足した体裁に過ぎない。組織が小さいうちは、カリスマの求心力だけで回る。しかし拡大すればするほど、「党則に基づく運営」と「創業者のカリスマによる統治」の矛盾が膨らんでいく。
政治学的に言えば、カリスマ型組織から制度型組織への移行はほぼ不可能とされている。これは政治に限った話ではない。アップルにおけるジョブズの追放劇、創価学会における池田大作以降の体制移行など、企業でも宗教でも同じ構造的問題が繰り返されてきた。
右腕や顧問が党首に反旗を翻す過程には、おおむね3つの段階がある。
初期段階では「この人に付いていけば自分も出世できる」という期待で忠誠を誓う。中期に入ると「この人、ちょっと危うい部分があるな」と気づき始める。そして組織が拡大した段階で「このままでは党が潰れる。自分が党を守るのが正義だ」と自己正当化が完成する。
この3段階は、ほとんどのカリスマ政党で驚くほど似たパターンをたどる。当事者にとっては「やむを得ない決断」だが、外から見れば予定調和の権力闘争である。
日本のミニ政党がこの問題にどう対処し、何が起きたかを整理すると、構造がよく見えてくる。以下に主な事例を比較する。
| 政党・人物 | カリスマの戦略 | 結果・教訓 |
|---|---|---|
| 維新の会(橋下徹) | 創業者本人が早々に表舞台を降り、実務家に運営を委譲した | 党は存続したが「橋下色」は薄れた。スケールには成功したが、カリスマの匂いが消えると求心力も弱まるという代償を払った |
| れいわ新選組(山本太郎) | 「自分以外に実権を持たせない」を徹底。所属議員はほぼイエスマン体制 | 党は存続するが急激なスケールは難しい。独裁型の宿命として、トップが倒れた瞬間に組織が空中分解するリスクを常に抱える |
| 幸福実現党(大川隆法→長男) | 教祖の死去後、典型的な後継争いと乗っ取り劇が発生 | 党の分裂と弱体化が進んだ教科書的な失敗例。宗教系政党が避けて通れない「カリスマ喪失後の崩壊」を体現している |
| NHK党(立花孝志) | 「自分がルール」と公言し、裏切り者は即座にパージする方針 | 党は残るが、まともな組織運営には永遠に到達しない。熱量は高いが、その熱量自体が組織化を阻む皮肉な構造 |
| 参政党(神谷宗幣) | カリスマによるトップダウン運営で成長。国会議員団の形成に伴い主導権争いの懸念 | 成長すれば「時限爆弾」が炸裂する典型的な構造を持つ。2025年参院選後の動向が試金石になる |
どの事例を見ても、カリスマと組織制度の間に根本的な緊張関係があることがわかる。成功と呼べるケースですら、何かしらの代償を払っている。
現実的に考えられる選択肢は3つしかない。
第一に、カリスマ本人が早めに権力を手放すこと。しかし、自分の魅力で人を集めた人間が、その権力を自ら手放すのは極めて難しい。橋下徹のケースは稀な例外であり、多くのカリスマにとって「引く」という選択肢は存在しないに等しい。
第二に、カリスマが死ぬか引退すること。だが、その瞬間から後継争いと乗っ取り劇が始まる。幸福実現党の事例が示すとおり、カリスマの退場は組織安定ではなく混乱の引き金になる。
第三に、永遠に裏切り者をパージし続けること。これはNHK党が体現している路線だが、行き着く先は北朝鮮型の独裁政党化である。組織としての健全性は最初から諦めるしかない。
結局のところ、「カリスマ的魅力を持つ人が政党を作り、党則に従って運営する」という構造そのものに根本的な無理がある。これは特定の政治家の資質の問題ではなく、カリスマ型組織が制度型に変わろうとするときに必ず発症する「普遍的な難病」だ。
創業者型の政治家は、最後にはこう呟くことになる。「信じられるのは自分だけだった」と。それは孤独な敗北宣言のようでいて、実はカリスマ政党の構造が最初から内包していた結論に過ぎないのである。

Kenichi Moritani Sat, 28 Jan 2017 10:00:46 GMT - Google+ - Public
> 第2次安倍政権発足前と比べて実質賃金は年収で19万円減、家計消費は15カ月連続で前年比マイナスだとして、「これを『経済の好循環』というのか」とただしました。
目的はいい。あとは手法。
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Kenichi Moritani Sat, 21 Jan 2017 21:53:32 GMT - Google+ - Public
知識人層はこぞってトランプ批判に回っているが、都市住民vs地方在住者とか、高所得者層vs低所得者層とか、いろんな対立基軸をこれまで「ないもの」として蓋をしてきたのが出てきただけ…と外野には見えなくもない。でないと、ヒラリーとほぼ同じほどの票数を獲得した結果が説明できない。
つまり、個々の政策や発言に対してのトランプ批判は成立するし、全然問題ない(むしろ必要)のだが、トランプの存在自体を否定するのは、彼に投票した人たちの意志や存在を否定するのに近くないか、と思える。主権者である合衆国国民の意志を反映して、大統領になったわけで、「トランプが大統領になるなんて…」と嘆く向きは、「トランプを推薦する国民がいる国なんて…」に繋がることを意識されているのだろうか。そこに興味がある。 それにしても、官僚トップの選び方は拙いらしいけどね。
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Kenichi Moritani Fri, 13 Jan 2017 14:19:50 GMT - Google+ - Public
> 実際に起こっているのは「何がなんでも権力に反発してみせる人間に対して何がなんでも反発する人々が増えている」事態だということだ。
反権力を旗印にした行動が、団塊世代の知識人を中心に「考えるまでもなく正義である」「目的はあらゆる行動を正当化する」と考えられてきたわけだが、それに対する揺り戻しが大きくなってきている。現状が「揺り戻し」であることを認めない人々は、「日本は終末に向かっている」「総右傾化している」などと非難してくるわけで、2つのある集団同士には、ほとんど理解しあえない深い溝ができつつある。望むらくは、団塊世代の知識人が社会から退場する頃になったとき、リベラルを常識的に、かつ理論的に(情緒的ではなく!)語ることができる人が社会に残っていることを期待したい。まあ、今でもいるんだろうが、あまりにも目立たなさすぎる。 (追記) ただ、権力に対して、それを指示するディスクールのみを発するのでは、その人間の政治的存在価値はほぼないと言える。村上春樹が「壁にぶつかって壊れる卵の側に常に立ちたい」みたいなことを言っていたが、そういう立場には常に政治的存在価値がある。 もし反権力の立場に立つのであれば、
3.は低い確率ながら、起こりえるプライバシー侵害や誤認逮捕などの問題を甘んじることで、よりテロに強い国家になることを目指すのかどうかが問題になるだろう。4.と5.は行動の問題で、4.は韓国政府の現状に鑑みるならば、いつもの「遺憾の意」砲にとどめておけばよかった。5.はかなり大きな問題だが、沖縄県民に配慮して、米軍基地は九州まで撤退させる。沖縄は何かあれば支那の手に落ちるだろうが、それは沖縄県民の選択と考える。国家としてその選択肢が採れないのであれば、逆に沖縄県を廃止し、鹿児島県の一部にしてしまう手もある。あるいは、東京都に編入するのもいい。沖縄県の人口は東京都の1/10だが、沖縄に配慮しなければ、都知事選には勝てないだろうから、東京の豊富な税収を沖縄にも回せることになろう。
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