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日曜日, 12月 02, 2018

早期英語教育は今すぐ止めるべき

20181202 english

Google+で2018/6/29公開(12/2追記)

本来、保護者や先生、仲間と一緒に生活したり遊んだりしながら母語を確立する時期に、英語漬けになって母語が十分に定着しないと、思考する力が育ちません。

https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2018/06/post-10484_1.php

外国語を長年やってきた身にすれば、尊敬すべき先生や先輩、後輩のほぼ全てが幼児教育など受けてはいなかった訳で、やるなら高校くらいで語学留学が一番いいだろう。高校生で海外に出ていきたくない奴は、外国語が必要な職業には向いていないので、潔く外国語が必要な仕事は諦めるべし。だいたい、何のために早期教育してんだか。米国とかで働きたいなら、語学力は最低限でもいいが、別の才能が必要ではないかなあ。

心配になるのは、すでに大半の小学校にも導入された、必須の英語の授業だが、こちらはあまり心配することはないらしい。現場の話を知り合いから聞いていると、フィリピン人が来て適当に喋って、教員が適当に日本語に訳しているだけという学校もあるらしい。外国語の教授法についてほとんど知識のない人を連れてきて、適当に時間を潰しているだけだと、効果はほぼないが、悪影響もほぼないと思われる。

月曜日, 4月 02, 2018

「中動態」は能動性と受動性の中間にある?

(Wikimediaより古代ギリシア語)

能動態でも受動態でもない「中動態」を知ると少し生きやすくなる | 文春オンライン
「力に怯え心ならずも従う――カツアゲや性暴力、各種ハラスメントで顕著ですが、非自発的同意という事態が日常にはゴロゴロある。能動性、受動性という概念にうまく当てはまらない状況なんです」
言語学的には、中動態は「自分に向かって行為を実行する」という意味のものが多いようだ。能動性と受動性の間を考える試みは、意志を重んじる近代までの西洋哲学の系譜とは相容れず、特にハイデガー以降に親和性が高いと感じるが、しかしそれが言語学的な中動態と関係があるのかは考える余地がある。






水曜日, 11月 12, 2008

水村美苗、英語、はてな

水村美苗「日本語が亡びるとき」を梅田望夫氏が紹介した記事について侃々諤々の議論が持ち上がっている。梅田望夫氏の元記事、はてブの釣られ具合、増田による元記事の解説、梅田望夫氏が切れた、とか。一連の議論は、梅田望夫氏らによる壮大な釣りであれば、この流れはとてもよくわかるのだが。そうでなくて、梅田望夫氏が本気でこんな切れ方をしているのなら、ちょっといかがなものかと。
はてぶのコメントには、バカなものが本当に多すぎる。本を紹介しているだけのエントリーに対して、どうして対象となっている本を読まずに、批判コメントや自分の意見を書く気が起きるのだろう。そこがまったく理解不明だ。
漫才を見に来ている客に対して、漫才師が「俺ら、そんなにおもろないのに、お前ら、よう笑うなあ」とあきれる態度と同じ。梅田望夫氏は、ネットについては、とてもいい話をする人だと思っているが、残念ながら何についても見識が深いとは言えない。そういうこと。

さて、水村本のあらすじを増田の解説で想像する限り、感傷的な煽りが主題なのかなと思える。ただし、その気持ちはわかるような気がする。
日本という「現地」に帰属しつつ他方で「普遍的なもの」とつながっているという点では「外国人」のような存在、すなわち、「在地の普遍人」というでもいうべきメンタリティーを有している人間にとっては、今回の水村さんの本を読んで刺激を受けるのだろうな、ということだ。
増田のこのコメントは、よくわかる。しかし、「在地の普遍人」って単に教養人と言い換えてもよくないか。外国語、しかも自分の母国語からできるだけ離れた文化で、「国語」として必須のものが備わっている外国語を長い間学んできた人間にとっては、自分の言語や文化を普遍的なものとの比較対照において相対化する、という態度は持っていて当然のものであり、格別にどうこう言われるものではない。

とか何とか考えていたら、増田もちゃんと書いてるな。
「現地語」のみを読み「現地語」のみで語る、他のものには触れないし読まない。そうなると、文学が、そして、それによって表現される知性が、衰退する、という反応が出てくるのではないか。
ま、早い話が「日本語しか知らない人は知的でありようがない」ということ。できるだけ日本語、日本文化とは異なる言語や文化に触れることは、知的であるためには必須。英語じゃなくてもいいけど、中国語や韓国語はNG。中国語は日本に近すぎるし、韓国語は「国語」としての力が弱すぎる。フランス語、ドイツ語、イタリア語、スペイン語あたりなら何でもいいな。アラビア語、ロシア語とかも悪くない。なんだ、大学の第二外国語か。

水村ご本人のインタビュー
「中途半端な国民総バイリンガル化を求めるより、少数精鋭の二重言語者を育て、翻訳出版の伝統を維持する。作文を書かせるより、古典をたっぷり読ませる教 育を積む。それが日本語の生命を保つ現実的な方策。もちろん小説家は密度の高い文体を全力で築く。さもなければ日本語はやがて亡(ほろ)びゆく。私たちは 分かれ道に立っています」
なんか、激しく同意するところと、なんじゃそらというところが混じっているコメントだな。まず、小説家はこの際どうでもいい。生活や仕事に役立つか、という視点からのみ考えるなら、「中途半端な国民総バイリンガル化」とか「作文を書かせる」とかの方が役に立つ。まあ、読書感想文みたいな作文ならいらないけど、自分の意見をきっちり書くための訓練としての作文はむしろ必要だろう。このあたりは、言うまでもない。

しかし、日本語が「国語」として文化を保持するには、あるいは、外国人が学ぶ価値を持った言語だと思えるようであるためには、逆に翻訳文化の育成、古典教育は大切だ。ごくわずかな人に対して、でいいんだけど。


ああ、なんだ。ごく当たり前のことを言ってるだけじゃないか。教養教育を絶やすな教養に触れる機会を増やせ。大半の人には無駄でも、ごくわずかの人が教養人になるためのはしごとなるから。外国語教育を怠るな。外国語を学ばない者は自国語をも知らない、と誰か言ってたな。古典を読め。古典は長期間にわたってふるいにかけられた、人類の叡智の結晶である。エリート教育を大切にしろ。外国語を深く理解することは誰にでもできることではない。

ふと思ったのだけど、ネットだけで世界が完結している人たちがかわいそうなのは、永井均とか佐伯啓思とか、日本語で普遍的なものを書けるが、ネットにはほとんど現れてこない人の作品を読む機会がないこと。私にとってはだけど、ネット上のどんなテキストを読むよりも、彼らの作品は知的興奮をもたらしてくれる。

ものすごく忙しいのに、ついつい長文を書いてしまった。

AI時代の本の読み方