はじめに
最近、AIと延々と議論する時間が増えた。仕事で使うだけでなく、ふと思いついた疑問をぶつけ、返ってきた答えにさらに突っ込む。そんなやり取りの中から、いくつかの考えが自分の中で固まってきたので、ここに書き残しておく。
ちなみにこれはAIが勝手に書いた記事ではない。AIとの会話を素材にして、筆者が自分の頭で再構成した文章である。AIに書かせると聞こえはいいが、結局それを「本当に自分の言葉か」と問い直す作業は人間にしかできない。その意味で、この記事そのものが本稿の結論の実践でもある。
音楽を聴くため、本を読むため、コンピュータを使うために生きている男のメモ。
最近、AIと延々と議論する時間が増えた。仕事で使うだけでなく、ふと思いついた疑問をぶつけ、返ってきた答えにさらに突っ込む。そんなやり取りの中から、いくつかの考えが自分の中で固まってきたので、ここに書き残しておく。
ちなみにこれはAIが勝手に書いた記事ではない。AIとの会話を素材にして、筆者が自分の頭で再構成した文章である。AIに書かせると聞こえはいいが、結局それを「本当に自分の言葉か」と問い直す作業は人間にしかできない。その意味で、この記事そのものが本稿の結論の実践でもある。
──最初の話題は「モラル・ライセンシング効果」についてでした。かつて会社員時代、トップの売上を上げていたことで「経費精算を長期間放置する」といったルール違反を無意識に正当化してしまっていたと。AIである私は一般的な心理学の対策を提示しましたが、それは現場のリアルにおいては「不可能であり無駄」だと一刀両断されましたね。
あなた: ああ、そうだったね。現場の過酷な現実を知らないAIの提案は、正直言って見識が浅すぎた。 猛烈に仕事をしている極限状態では、プロとしてのアイデンティティの中に「モラルを守る」なんていう余裕は入り込んでこないんだよ。会社にとって一番重要なのは売上を作ることだし、それは絶対的な正義だ。そのプレッシャーの中で「仕事の手を抜いてペースを一定に保つ」とか「成果とルールは別物だ」なんて綺麗事を並べても、現実の修羅場では全く通用しない。 成果を出すのがあまりにも過酷な状況では、ルールの遵守なんてどうしても後回しになってしまう。それが人間のリアルな心理というものだよ。
──しかし一方で、独立して編集プロダクション業務を一人で回されている現在、あなたの中には「絶対に破らない美学」が存在しています。「ライターやデザイナーへの不公正なギャラ配分はしない」「決して買い叩かない」という点においては、いかにご自身が多忙でもモラル・ライセンシングが一切発動していません。
あなた: そうだね。出版業界の原稿料はここ十数年で半減しているけれど、俺は絶対に削らない。消費税の対応で1割引かせてもらったことはあるけれど、それすら本当は戻したかったくらいだ。 企画から進行、デザイン発注、校正、なんなら今は生成AIを使って自分でイラストも作る。多岐にわたる業務を一人でこなして、売上は年間XXX万円以上。そのうち約X割、XXX万円ほどを外注費として周囲に回している。一人でやる規模としてはなかなかのものだと思うし、だからこそ食えているんだと思う。 最近は生成AIが台頭してきているから、今後は第一線を退いて仕事が減ってしまったような経験豊富なベテラン層に、AI生成物のファクトチェックや編集を依頼するなど、新しい形での還元も考えているところだ。 ただ、自分がどれだけ苦労して全体をカバーしていようと、「俺が稼いだんだからギャラをピンハネしていい」とは思わない。評価の傾斜をつけるにしても、万が一相手に知られても論理的に説明できるだけの透明性と根拠を自分の中に持っている。それは俺の「義務」だからだ。
──なぜ、会社員時代はルールの逸脱が起き、今は高い倫理観を保てているのでしょうか?
あなた: 単純な話で、周りに「モラルのない変な奴」がいない環境に自分を置いているからだよ。 会社組織にいると、どうしてもおかしな奴がいっぱいいる。そういうのを見ていると「俺はこれだけ売上を作っているんだから、あいつらとは違う。多少モラルを外してもいいじゃないか」と流されてしまう。それが俺の弱さなんだろうね。 だから今は一人でやっている。とはいえ、仕事を発注してくる取引先には、当然モラルや能力に欠ける人間もいる。そういう欠陥のある相手と折り合いをつけて仕事をもらわなければならない現実に、強烈なフラストレーションが溜まることも多い。自分を律するなんて簡単なことじゃない。そういった理不尽な人間関係も含めて引き受けることが、すべてひっくるめて「仕事」なんだろうと感じているよ。
──「仕事は単なる金儲けではない」と仰っていました。それはどういう意味合いでしょうか?
あなた: 仕事を通じて、自分はある方向に向かって成長できたという実感がある。他責思考に陥らず、成果を出し、周囲にも仕事という果実を与えていく。それは現世において自分がやっていくべきことであり、実行すべき「義務」なんだ。 ただね、売上を追求することとルール(倫理)を守ることを両方自分に課すというのは、本当に辛いことなんだよ。早く辞めたいわけじゃないけれど、生きていくこと、仕事を続けていくことは、基本的に非常に辛い。その感覚は常に底にある。
──そして、その「辛さ」の背景には、仕事とは別の、人生におけるもう一つの重いタスクの存在があるとお話しされましたね。
あなた: そう。これまでに何人か、若くして亡くなった近しい人を見送ってきた。その人たちのことを覚えておいて、心の中で弔っていくというのが、俺に課せられた個人的な重いタスクなんだ。 別にその人たちが偉大な業績を残したわけでも、人格者だったわけでもない。ただ、俺がその人にとって一番近いところにいた、という事実があるだけだ。 昔はこういうことを誰かに知らしめなきゃ意味がないと思っていたけれど、今は違う。なぜなら、人生は一度きりじゃないと確信しているからだ。今回の人生が終わったら、またあの世で先に逝った大切な人たちと再会できる。そしてその時に、「あんたも大変だったね」とお互いの人生を労い合える。そう思える人たちを先に見送ってきたんだ。
──そうした現世の義務や記憶を背負って生きるということについて、今どのように感じておられますか。
あなた: こういうタスクを自覚すると、とにかく重たくてしんどいよ。四六時中考えているわけじゃないけれど、やっぱり重いし、つらい。でも、俺がまだ生きているということは、それらの重さをまだ背負えるからなんだろうね。あるいは、まだ背負わなければいけない時期だから、こうして生きている。
モラルを保ちながら理不尽な仕事に向き合うことも、死者の記憶を抱えていくことも、生きていくというのは本当に大変なことだよ。
いつか今背負っているタスクが全て終わった時、自分が満足するかどうかはわからない。けれど、この現世でのタスクを終えたことで、天国か地獄かはわからないけれど、とにかく現世ではない場所に帰っていくことができる。それは非常に良いことで、少なくとも俺にとってはとても待ち望んだことなんだ。
──それは、早く人生を終わらせたいという意味合いでしょうか?
あなた: いや、もちろん自殺願望なんかじゃない。おそらく近代以前の昔の人たちは、こういう風に考えていた人が多かったんじゃないかな。現世というのは決して楽なことばかりではなく、辛いこともたくさんある。無限に生きていれば何でもできるわけでもなく、自分に課せられたタスクにも限りがある。
だから、そういったものが終わったら、現世を終える、人生を終えるということになる。逆に言えば、「生きているということは、まだそのタスクが終わっていない」ということなんだよね。何らかのタスクを抱えていて、それを自分なりのやり方でこなしていくことが、実は求められているんじゃないかと最近は考えているんだ。
ヴィクトール・フランクルの『夜と霧』に、「人生に何かを期待するのではなく、人生から何を期待されているかを知る」という話があったけれど、それに少し似ている。生きているということは、何らかのタスクをこなすことを期待されているということであり、それが生まれてきた理由なんだよね。だから、それに対して自分がどのように振る舞うのかが問われている。
アウシュビッツで辛さに耐えかねて、高圧電流の流れる鉄線に向かって走ってしまった収容者がいたことは、本当に悲しいことだし、あってはならないことだと思う。その人も、もしかしたらどこかで後悔しているかもしれない。でも、そういった経験も含めて、課せられたタスクを何らかの形でこなしていくことこそが、我々が生まれてきた唯一の理由なんじゃないかと思っている。
何が生まれてきた理由なのか、はっきりとは言えないけれど、「今課せられたタスクをしっかりとやっていくこと」。それしか俺にやることはないし、それが一番重要なことだと最近は思っているよ。
ユヴァル・ノア・ハラリは、2016年の『ホモ・デウス』において「データ主義」(Dataism)を、データとアルゴリズムの流れを宇宙の究極価値とする新しい宗教形態として提示した。そこでは人間の主観・感情・自由意志は信頼できないノイズとされ、アルゴリズムによる処理が真実を決定する世界観が描かれる。ハラリ自身はこれを積極的に推奨する立場ではなく、「これが到来する」と予言する観察者としての位置づけである。対立軸は明確であり、ルネサンス以来の「人間主義」(ヒューマニズム)——人間の経験や物語を価値の中心とする思想——そのものである。ルネサンスが神中心の中世を否定して人間を主役としたように、データ主義は人間中心主義を否定し、人間を「生化学的アルゴリズム」の一部に還元する。
これに対し、議論では「人間主義」という括りが近代思想全体を大雑把に一括りにしすぎている点が指摘された。資本主義は人間の欲望を原動力とするものの、効率と利益を優先する非人間的な側面が強く、単純に人間主義の変種と呼べるかは疑問である。思想史を精査すると、ドイツ観念論からロマン主義、論理実証主義、現象学・言語哲学へと、常に直前の思想を否定しながら交代が繰り返されてきた。データ主義もこの連鎖の中に位置づけられるべきであり、「人間主義」という広範なレッテルでは思想の細かな交代劇が失われてしまう。
ここで提案された代替概念が「ネオ実証主義」である。従来の実証主義が観測事実を重視したのに対し、ネオ実証主義は人間の解釈・意味づけを完全に排除し、データとプログラム(アルゴリズム)に判断を委ねる点が特徴である。これは「雰囲気」で済ませていた事象を、きっちり計測・データ化してAIに自動処理させる流れにほかならない。コンピュータ開発の現場ではデータとプログラムが不可分であるため、「データ主義」という呼称は曖昧であり、むしろ「アルゴリズムによる自動判断主義」と表現する方が技術的本質を捉える。
このネオ実証主義の実践例として、チームみらい(安野貴博党首)の「デジタル民主主義2030」プロジェクトが挙げられる。同プロジェクトはAIによるブロードリスニングで国民の声を自動抽出、政治資金のリアルタイム公開など、人間の政治的バイアスを最小化し効率化を目指す。しかしここに、1世紀前の論理実証主義が犯した根本的誤りが再現されている。
論理実証主義(ウィーン学団、カルナップ、エイヤーら)は日常言語の曖昧さを排除するため記号論理・形式言語を提唱し、哲学的問題を言語分析に還元しようとした。ところが、クワインの全体論、クーンのパラダイムシフト(1962年『科学革命の構造』)、ポパーの反証可能性などの科学哲学により、データや観測の取り方・解釈・枠組みに設計者の価値観・思想が不可避的に介入することが明らかになった。同じデータでもパラダイムが変われば意味が根本的に変わる——物理学の歴史(ニュートン力学→相対論→量子力学)がこれを証明している。したがって、「データとAIで民意を一義的に抽出できる」「人間の介入を排除すれば中立になる」という主張は、科学が「一つの永遠の真理」を持つという幻想を繰り返すに等しい。論理実証主義が「科学は累積的進歩」と楽観したのと同様、データ主義/ネオ実証主義も恣意性を排除しようとする行為自体が最大の恣意性であることを見落としている。哲学・科学史の入門的知識さえあれば、この誤りは「常識」として認識可能であり、学部生レベルで十分理解できる内容である。
本議論はハラリの文学的表現を技術・哲学の観点から解体し、データ主義の本質を「ネオ実証主義のAI時代版」と位置づけた。人間主義への大雑把な批判、言語の曖昧さ問題、科学の非累積性という歴史的教訓を踏まえれば、「データが神」という神話はすでに時代遅れであることが明らかになる。実務的なデジタルツールの活用は一定のメリットを持つものの、その根底にある思想的前提は、20世紀前半の過ちを現代的に再演しているにすぎない。
「ネオ実証主義」は造語。まとめ記事にする前、実際の議論では「新実証主義」という言葉を使ったが、これは別の概念として存在する。また、「ポスト実証主義」とも異なる。
なぜこんな不格好な造語を作ったか。ハラリの「データ主義」は批判対象であるにしても、言葉として不適切であると考えたから。データ主義は「データがもっとも重要なものである」とする。しかし、ここでの「データ」とはシステムやプログラムと対になる意味での「データ」ではない。そのため、「データ実証主義」という用語は不適切だと考えた。
もう一つ。見苦しい言い訳をしておくと、ハラリの概念もチームみらいの政治的主張もまだまだ不勉強である。この記事には、単なるメモ以上の価値はない。
僕は(仕事の)パートナーを亡くしました。その深い喪失の中で、たくさんのことを考えました。宗教の言葉に救いを求めたこともあります。でも最終的に、自分自身で一つの「考え方」を編み出すことで、ようやく心が少しだけ軽くなりました。
これは宗教でも教えでもありません。ただ、苦しみの中でたどり着いた一つの物語です。同じように辛い思いをしている誰かの心が、少しでも楽になればと思い、書き残しておきます。
YouTubeで仏教関連の動画をよく見ていた時期がありました。ある日、親鸞会(浄土真宗・親鸞上人の教えを基盤とする団体)の方の講話に出会いました。親鸞上人の教えは「自力では救われない」「他力本願」という特徴を持っています。それ自体は深い思想だと思います。
でも、パートナーを失って極度に苦しんでいるその時の自分には、その言葉が届きませんでした。説教っぽく感じてしまい、重荷が増えるだけだったのです。
宗教の本質的な役割は、人が最も苦しんでいるとき——死の恐怖、大切な人の死、病気——に、心と頭の両方を納得させて救うことだと思います。ただそばにいてくれるだけでは足りないのです。ある程度の「理屈」が必要です。理屈のない慰めだけでは、頭が納得してくれず、苦しみがぐるぐると回り続けます。
自分を救えない宗教なら、信じる意味がない。そう思って、自分で考え始めました。
たどり着いた考え方の中心にあるのは、こんなイメージです。
死んだ人は、消えてしまうのではなく、別の場所で親しい人たちを待っています。そして適当なタイミングで転生します。ここまでは、いわゆる輪廻転生の考え方と似ています。でも、一つだけ大きく違う点があります。
転生は、未来だけでなく「過去」にも行ける。
複数の時間が並行して流れているような世界観の中で、親しい人とは何度も生まれ変わりながら出会い、一緒に喜びや悲しみや苦しみを積み重ねていきます。今は前世の記憶がないから辛い。でも、再会したとき、すべての出来事を語り合えると信じています。
この考え方があると、現世での別れが「永遠の別れ」ではなくなります。「またすぐに会える、一時的なお別れ」になるのです。それだけで、死の恐怖や喪失の絶望が、驚くほど和らぎます。
輪廻や転生を信じるなら、「今が苦しいなら死んでリセットすればいい」と思う人が出てくるかもしれません。これは大事な問題です。
でも、自殺は逃避にはなりません。同じ苦しみが、次の人生で別の顔をして出迎えるだけです。セーブせずにリセットするようなもの。だからこそ、今の苦しみに正面から向き合って、一つずつ解決していくことに意味があるのです。
ただし、自殺した人を一律に責めるのは違います。名誉のため、誰かを守るため、追い詰められて選ばざるを得なかった人もいます。それぞれの事情があり、それは尊重されるべきです。
この考え方をもう少し広げると、現世は「自分で設定した課題を解決するために生きている場所」になります。
障害を持って生まれた人は、とてつもなく難しい課題を自ら選んだ存在です。超高難度のゲームを選んだ勇者のような人です。心から敬意を持つべきだと思っています。
では、事故や犯罪、虐待で苦しむ人は? 「自分で選んだ」と言ってしまうのは残酷に聞こえます。だからこそ、こう考えます。苦しみは「個人の罰」ではなく、「人類全体で共有している宿題」です。
加害者も、被害者も、傍観者も、支えきれなかった人も、すべてが一つの問題を共有しています。次に転生する誰かが「今度は助ける側になろう」と選ぶかもしれない。苦しみは「みんなで抱えて、みんなで解決しようとしているもの」なのです。
この「みんな」とは、今生きている人だけではありません。過去の人、未来の人、遠くの国の人、歴史上の人まで含む、全人類のことです。
人はそれぞれバラバラに生きているように見えます。でも実は、みんな見えない糸で繋がっています。
誰かの利己的な行動が連鎖して、思いもよらない場所で犯罪や悲劇を引き起こすことがあります。でも逆に、誰かが「ちょっとだけ相手のことを考える」だけで、その連鎖が断ち切られ、助けに変わる可能性が生まれます。
目的を持って生まれてきても、周囲の影響で本来の課題を果たせないまま終わることもあります。悲しいけれど、それもあり得ることです。でも、失敗しても次がある。前の人生で得た学びは残ります。
人生はリトライ無制限です。だから「失敗した人生」というものは存在しません。
大谷翔平のように、人間性も才能も突出した人は、何度も課題をクリアしてきた結果なのかもしれません。自分のような人間は、まだ課題の途中です。
でも、収入や人間性に差があっても、羨む必要はありません。それは単に課題の難易度や進捗度の違いにすぎないのです。お互い、今生の課題をそれぞれにやっている。それだけのことです。
地獄についても、少し変わった見方をしています。
地獄は神様が罰として送る場所ではありません。「悪い考え方やモラルのない生き方が心地いい」と感じた人が、自ら選んで赴く場所です。そう考えると、恐怖ではなく、「ああ、そういう趣味なのか」と、少し醒めた目で見ることができます。
今の苦しい現世も同じです。自分で選んだ道だからこそ、少し方向転換すれば転生先が変わる。自分の人生が、自分の手から離れていないという安心感が生まれます。
この考え方の良いところは、他の宗教と対立しないことです。キリスト教でも仏教の各宗派でも、何を信じていても構いません。
仏教は天台宗、浄土宗、浄土真宗など宗派ごとに教えがかなり異なり、「俺はこう思う」が許容される懐の深さがあります。この考え方も、その延長線上にあるような、一つの「解釈」に過ぎません。
自分の転生観をベースに、他の宗教を包み込む形で取り入れることもできます。もちろん個々の教義と矛盾する部分はありますが、強制しない柔軟さこそが、この考え方の強みだと思っています。
この考え方には当然、批判もあります。いくつかの代表的なものに、正直に答えておきます。
「科学的根拠がないじゃないか」——そのとおりです。証明はできません。でも、愛や正義や生きる意味だって、科学では証明できません。それでも人はそれらを信じて生きています。苦しみが少しでも和らぐなら、それで十分ではないでしょうか。絶対の真実として押しつけるのではなく、「自分はこう思うことで楽になった」と共有するだけです。
「被害者を責めているように聞こえる」——責めているのではなく、むしろ逆です。「みんなで共有している宿題」だからこそ、被害者は一人で背負っているわけではありません。私たち全員がどこかで関わっている。だからこそ、今ここで優しくすることに意味があるのです。
「リトライ無制限だと、今の人生を適当に生きてもいいことにならないか」——逆です。次があるからこそ、今を大事にしたいと思えます。今の優しさや努力が次の生で返ってくるなら、ちゃんとやったほうが良いに決まっています。
「万人に効くわけじゃない」——そのとおりです。どの宗教も万人に効くわけではありません。この考え方は、「理屈で納得したいけれど、永遠の別れが怖い」という人に届けばいい。一人でも心が楽になれば、それだけで十分に価値があります。
この考え方を、「教え」としてではなく「一つの考え方」として、少しずつ発信していきたいと思っています。大げさな宗教ではなく、個人的な体験に基づく優しい言葉として。
動機は「自分が優れているから」ではありません。パートナーを失った深い後悔と、そこから必死に這い上がろうとした経験から来ています。
自分一人でやる必要はありません。同じ想いを持つ人が、それぞれの場所で、それぞれの言葉で発信すれば、世の中の苦しみは少しずつ減っていくはずです。
理論でわかっても、心が追いつかないときがあります。だからこそ、言葉にして伝え続けることが大事なのだと信じています。
1人のカリスマ的魅力を持つ人物が政治団体を立ち上げ、国政選挙を目指す。人が集まり、組織化と資金調達が進み、党則も整備される。右腕や信頼の顧問も登場し、党勢は拡大していく。ここまでは順調だ。
ところが、ある日突然、その右腕や顧問が「党首の政治外の問題」を持ち出して辞任を迫り始める。傍目には乗っ取りに見えるが、真意はわからない。結局、党首は党則の外の力でその人物をパージする。これは特定の政党だけの話ではない。日本中のミニ政党で、多少の差異はあれど繰り返されている現象である。
カリスマ政党の本質は「この人に付いていきたい」という感情の忠誠にある。党則は後から付け足した体裁に過ぎない。組織が小さいうちは、カリスマの求心力だけで回る。しかし拡大すればするほど、「党則に基づく運営」と「創業者のカリスマによる統治」の矛盾が膨らんでいく。
政治学的に言えば、カリスマ型組織から制度型組織への移行はほぼ不可能とされている。これは政治に限った話ではない。アップルにおけるジョブズの追放劇、創価学会における池田大作以降の体制移行など、企業でも宗教でも同じ構造的問題が繰り返されてきた。
右腕や顧問が党首に反旗を翻す過程には、おおむね3つの段階がある。
初期段階では「この人に付いていけば自分も出世できる」という期待で忠誠を誓う。中期に入ると「この人、ちょっと危うい部分があるな」と気づき始める。そして組織が拡大した段階で「このままでは党が潰れる。自分が党を守るのが正義だ」と自己正当化が完成する。
この3段階は、ほとんどのカリスマ政党で驚くほど似たパターンをたどる。当事者にとっては「やむを得ない決断」だが、外から見れば予定調和の権力闘争である。
日本のミニ政党がこの問題にどう対処し、何が起きたかを整理すると、構造がよく見えてくる。以下に主な事例を比較する。
| 政党・人物 | カリスマの戦略 | 結果・教訓 |
|---|---|---|
| 維新の会(橋下徹) | 創業者本人が早々に表舞台を降り、実務家に運営を委譲した | 党は存続したが「橋下色」は薄れた。スケールには成功したが、カリスマの匂いが消えると求心力も弱まるという代償を払った |
| れいわ新選組(山本太郎) | 「自分以外に実権を持たせない」を徹底。所属議員はほぼイエスマン体制 | 党は存続するが急激なスケールは難しい。独裁型の宿命として、トップが倒れた瞬間に組織が空中分解するリスクを常に抱える |
| 幸福実現党(大川隆法→長男) | 教祖の死去後、典型的な後継争いと乗っ取り劇が発生 | 党の分裂と弱体化が進んだ教科書的な失敗例。宗教系政党が避けて通れない「カリスマ喪失後の崩壊」を体現している |
| NHK党(立花孝志) | 「自分がルール」と公言し、裏切り者は即座にパージする方針 | 党は残るが、まともな組織運営には永遠に到達しない。熱量は高いが、その熱量自体が組織化を阻む皮肉な構造 |
| 参政党(神谷宗幣) | カリスマによるトップダウン運営で成長。国会議員団の形成に伴い主導権争いの懸念 | 成長すれば「時限爆弾」が炸裂する典型的な構造を持つ。2025年参院選後の動向が試金石になる |
どの事例を見ても、カリスマと組織制度の間に根本的な緊張関係があることがわかる。成功と呼べるケースですら、何かしらの代償を払っている。
現実的に考えられる選択肢は3つしかない。
第一に、カリスマ本人が早めに権力を手放すこと。しかし、自分の魅力で人を集めた人間が、その権力を自ら手放すのは極めて難しい。橋下徹のケースは稀な例外であり、多くのカリスマにとって「引く」という選択肢は存在しないに等しい。
第二に、カリスマが死ぬか引退すること。だが、その瞬間から後継争いと乗っ取り劇が始まる。幸福実現党の事例が示すとおり、カリスマの退場は組織安定ではなく混乱の引き金になる。
第三に、永遠に裏切り者をパージし続けること。これはNHK党が体現している路線だが、行き着く先は北朝鮮型の独裁政党化である。組織としての健全性は最初から諦めるしかない。
結局のところ、「カリスマ的魅力を持つ人が政党を作り、党則に従って運営する」という構造そのものに根本的な無理がある。これは特定の政治家の資質の問題ではなく、カリスマ型組織が制度型に変わろうとするときに必ず発症する「普遍的な難病」だ。
創業者型の政治家は、最後にはこう呟くことになる。「信じられるのは自分だけだった」と。それは孤独な敗北宣言のようでいて、実はカリスマ政党の構造が最初から内包していた結論に過ぎないのである。
コンピューター関係の話や社会問題などを時々投稿してきたが、ここのアクセスは多くない。さらに、他にX(旧Twitter)もnoteもやっていて、そちらは自分としてはまあまあ読まれているので、そちらに投稿を集中することにした。コンピューターはnoteとXに、音楽関係はXに、社会問題について匿名で長文を書きたくなれば、あるいは保存すべき文章があればtumblrに書くなりコピーするなりしておこう。
アクセスの多いPDF関連記事は、内容を新しくしてnoteに移動させておこう。更新できたら、ここの古い記事は消す。
そうそう、反ワクの話はここに書いておこう。