2008/11/16

知力も総量は同じ

社会全体で見たとき、たとえば日本人はここ10年とか100年とか1000年とかのスパンで前よりも愚かになったり、あるいは賢くなったりはしていないと、前々から思っている。もちろん、戦争をやっていた時期は文化が低迷し、後から見れば暗黒時代になるのは仕方ないにしても、ちょっと社会が落ち着けば、それなりの状態になっていく。

他に同じようなことを言う人をあまり見かけなかったのだが、どうやらそれは私の不見識だったようだ。内田せんせのブログから。
「世代の知性の総量というのは変わらない。それが向かう先が変わるだけである」(@村上春樹)という考えに私も同意する。
今の子どもが20年前の子どもと比べて学力が劣るとしたら、それは別のところに力を振り向けているからである。パソコンやケータイといった情報機器を使いこなす力は、それらがなかった20年前と比べたら格段にアップしている。社会は単純化するところと、複雑化するところと、両面があって奇妙な形でバランスが取れているはず。そう考えることで、「これからの日本はどんどんダメになる」などの非生産的悲観論ではなく、「これからの日本はどこに注力すべきか」といった生産的議論が可能になる。

さて、内田せんせが書いているように、学力低下の真の原因はここにある。
子どもたちの学力が低下した理由は「この世でたいせつなものは『学力そのもの』ではなく、『学力をもつことでもたらされる利益』である」という考え方が支配的になったからである。学力なんかあってもなくてもどうでもよろしい。学力があることによって得られるとされている利益(競争における相対優位、威信、権力、財貨、情報、などなど)が得られるなら「何をしてもよい」というのが私たちの時代の風儀である。
「うまくやること」のみがもてはやされる現代である。誰かのミスにつけ込んで数時間で数百億円を稼げば、それが見習うべきものとして評価される現代である。自分が寝ている間にも小銭を稼いでくれるアフィリエイトのようなシステムを手に入れた人を、多くの人が羨望と尊敬の目で見るような現代である。学力とか教養とか、もたらされる利益がはっきりせず、しかも尺度さえはっきりしないものを求める子どもが少なくなったからといって、何も変ではない。

ただ、こういう現状に対して、私自身は悲観していない。「日本がどんどんダメになっていきつつある」などというディスクールはダメな評論の最たるものだ。これまでも、日本のどこかがダメで、どこかがよかった。これからも、どこかがダメで、どこかがよい社会であり続けるだろう。きっと、マクロ的に良い悪いを論じることは無意味で、悪い何かを少し良くすること、今の「悪」を減らすこと(新たな「悪」が出てくるにせよ)が重要なのだろう。そして、一番重要なのが、どのように良いことと悪いことが移り変わってきたのか、それを知っておき、それに従って現状を分析できることではないか。これがつまり歴史である。昔は、歴史の価値をまったく認めることができなかった愚かな私だが、「歴史が重要である」という結論に帰着せずに、このあたりの議論を深めることはできない。
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