ジョン・J・ミアシャイマー『なぜリーダーはウソをつくのか』(中公文庫)に寄れば、国家のリーダーは7種類のウソをつく(pp.45)。
国家間のウソ…他国よりも戦略的に有利な立場を獲得したり、他国が自分たちの分まで有利になるのを阻止する
恐怖の煽動…自国民が全く認識していないか、あるいは十分に理解していないと思われる、対外政策面での脅威を認めさせる
戦略的隠蔽…失敗したり議論を巻き起こしたりする政策を自国民や他国から隠す
ナショナリスト的神話作り…自国民に対して、「我々が常に正しくて、彼らが常に悪い」という物語を教える
リベラル的ウソ…リベラル的な規範と矛盾するような国家の行動を隠すために使われる
社会帝国主義…自国の経済的または政治的利益や、特定の社会階層や利益団体のために、他国の事柄について嘘をつく
無能の隠蔽…自分たちのせいで失敗したり実現できなかった政策について、自己の利益を求めて嘘をつく
さて、わかりやすいところで言えば、韓国で何か日本起源のものを指して「これは朝鮮半島起源であり、日本に輸入されたものである」と言うのは、上に挙げた「4.ナショナリスト的神話作り」に当たる。また、ブッシュ米大統領がイラクに大量兵器があると発表したのは「2.恐怖の煽動」であり、2019年末以降、日本政府が国内の景気低迷を「緩やかに回復」としたのは「3.戦略的隠蔽」であろう。もしかしたら、景気対策が失敗したことを自覚していて「7.無能の隠蔽」を図ったのかもしれないが。
注意しなければならないのは、
これらの嘘は決して国家のリーダーの専売特許ではない ことだ。安倍政権を口汚く罵る人々にも、ほぼ共通して見られる、ある種のテクニックなのである。流石に全てが当てはまるわけではないが、自分が過去に褒めていた人が迷走し始めたので関連動画を非公開にする「7.無能の隠蔽」や、自分がお金をもらっている団体のことを持ち上げる「6.社会帝国主義」は日常的に見られる。YouTubeで偉そうなことを言っている人の動画を10分も見れば、だいたい上の項目のうちのいくつかが含まれていることに気づくはずだ。「嘘」と断ずる根拠がないので、そういった動画を挙げて例示するのは難しいのだが。
ワシがこの部分に引っかかったのには、さらに理由がある。これら嘘をつくことが国家のリーダーとか有名なYouTube=煽動家にのみ許された行為であるなら、単純に「世の中のことをよく理解できるようになった。むふふ」と言っていれば済む話なのだが、
これに似たことはビジネスの現場にも当てはまる 。しかも、それは大企業だけに止まらず、個人事業主やアルバイトのレベルまで関係がある。
出版物で言えば、「この知識がないと、現代を生き残れない!」などという煽り文句は常套句である。実際には、その本を読まずに現代を生き残ることが可能であったとしても(だいたいの場合、本の知識は生き残るのに必要ない)、このようなアオリを書くことに罪悪感を持つ編集者はいないだろう。つまり、その煽り文句は嘘である。上で言うところの「2.恐怖の煽動」であり、「3.戦略的隠蔽」に当たる。
そこで気になるのは、「嘘をつくのは良くない」という道徳的・宗教的教えである。たまたま、今日見た動画の中にこういうものがあった。
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大愚和尚のYouTube動画だが、このように説法を行う大愚和尚ご自身が「誠実」なのかは、よくわからない。おそらくは「誠実」ではないだろう。ワシの尺度によれば、だが。ワシの尺度によれば、もう自分の生活のために儲けなくても食べていける状態というのは、大変な「不誠実」から成り立っている。また、宗教家が自分を飾り立てるようになると、それは中身が腐敗してきたことを意味する。
もちろん、美しい映像と滑らかな語り口によって、ファンは増えるだろう。そして、助けられる人も増えていくだろう。しかし、それは宗教家としての「誠実」とは関係がない。ローマ教会の歴史と残されている建造物・美術品を見よ。
一方で、人助けという面から見れば、「誠実」であることは必須ではなく、むしろ人助けの能力が高い方が重要である。人助けという面から見れば、宗教家として誠実で人助けに興味のない人よりは、説法がうまく、ファンを集められる人の方が価値が高い。それはそれでいい。しかし、それは「誠実」とは関係のないことだ。
僧侶でさえ、自分の顔(=自分がどうであるか)を鏡ではっきりと見る(=自分で知る)のは難しい 。自分が「誠実」でないことに気づかず、他人に「誠実であれ」と説教してしまう。誠実さも賢さも、大愚和尚に全然劣っているワシのような人間ならなおさらだ。よくよく注意した方がいい。
閑話休題。大愚和尚が嘘をついていないまでも「誠実」ではないことを目の当たりにするにつけ、ワシら凡人は
「誠実な人間であろう」とするよりも「自覚的に嘘をつく」ことを目指した方がいいのかもしれない 、と感じている。もちろん、何にでも嘘をつくのは精神的な障碍であり、とても勧められるものではない。しかし、変に「誠実」であることによって、自分や自分の近しい人を危険に晒したり、あるいは本来伝えるべき知識が伝わらないとしたら、それは目的から外れる。
出版物で言えば、例えばExcelの使い方を事務職の人が覚えることには何の問題もなく、知識があることが知識がないことよりもほぼ無条件で優れている。であるなら、ごく単純な話、「Excelが使えないと、現代では生きていけない」とか「この機能を使いこなしてこそ、一人前のビジネスパーソンである」などと言ってしまうことは、「2.恐怖の煽動」や「1.国家間のウソ」「4.ナショナリスト的神話作り」に繋がるが、それはもはや必要なウソである。
似たようなことは、日々のビジネスシーンでよく生じる。思い返すに、本当のことを言った「誠実」な行為から不都合な結果が生まれたことは枚挙にいとまがない。「嘘をつくのは良くない」「本当のことを言うのが望ましい」という固定観念は、真面目な人間こそ、捨てた方がいいような気がする。
あるいは、
目指すべきは「誠実な嘘つき」なのかもしれない 。「誠実な嘘つき」になるためには、どのように嘘をつくと自分や他人のためになるのかを考える必要がある。最近、人生でもっとも重要なのは「戦略」であるという思いを強くしているのだが、「誠実な嘘つき」であるためには「戦略」が必要になってくる。何も考えずに、ぼーっと本当のことだけを言っている人間には「戦略」は無縁である。そういう生き方も認められるべきだが、この世に生きている限り、なかなかうまくいかないものだ。