そこらのオッサンもちゃんとした学者も同じなのだが、自分の詳しい=仕事として従事したことのあるジャンル以外について発言するときには、十分慎重になるべきだ。専門分野についても、人はしばしば判断を誤る。況んや、専門分野以外においておや。少し統計を調べたり、論文を読んだり、訳書を読んだくらいで、さも知ったように大声で語るのは、社会にとって害悪でしかないことが多い。
言っても問題のない範囲では、武田邦彦教授は環境問題や原発の問題については意見に耳を傾ける価値があるが、宗教や社会の問題について話し出すと、独特のことを言い始めて、ほぼエッセイでしかない。随筆・随想の類である。エッセイを書いたり話したりするのはいい。「これは随筆・随想である」という注釈を書いてあれば許せる。文芸誌で小説家が社会問題を扱った文章を掲載しても、それは社会学とか教育学の問題だとは通常は認識されない。一方で、Twitterでニュースを引用して「こいつはこんなことも理解していない」とか、統計を適当に調べて「こいつの主張はトンデモだ」とかツイートすれば、それはエッセイではなく、自分ではサイエンスや学問を語っているつもりの人が多そうだ。
昔、海外文学でかなり高名な先生について、亡くなった師匠が言っていた話だが、「あの先生は文学についてはいいんだけど、言語学については独特のことを言う」と、やんわり非難していた。「独特のこと」というのは、その学問の流れを理解せずに独自の知見で語ることという意味合いだ。もちろん、学問の流れにとらわれすぎるのはよくないが、流れを知らずに何かを話すのはほとんどの場合、恥ずかしいことだとワシは教わった。
非常に近いジャンルでもこのような問題にあたるのであるから、物理学者が宗教について語るなら、かなりの勉強と覚悟が必要になる。この勉強というのは、単に本を読んだり書いたりするだけでなく、論文を書ける程度に学ぶということである。
ワシも生涯にわたって研究に値するテーマを2つほど持っているが、ちゃんと書けば博士論文になるだろうと思っている。時間も能力も体力もないし(特に能力)、そもそも論文を書くのが向いてないから大学を飛び出したので、本当に書けるとは思っていないが、何か偉そうに語るならそのくらいの勉強は必要だろう。ただし、単なるエッセイなら、これは書ける。まあエッセイといっても勉強しなくちゃいかんが、偉そうに適当なツイートをしてる人よりはたくさん勉強しないと、1行も書けないのだが。
そして、そんなことより重要なのが、仕事で毎日扱っているジャンルとか、一生懸命勉強したことのあるジャンルとかにかすりもしない件については、とても人様を偉そうに非難する気にはなれないことだ。きっと、このような考え方のほうがずっとマイノリティなんだろうが…。
No comments:
Post a Comment