アニメ『葬送のフリーレン』は名言の宝庫である。特に、勇者ヒンメルはいくつもの名言を語っている。以下は、その一つだ。YouTubeショート
「生きているということは、誰かに知ってもらって覚えていてもらうことだ」
この言葉をきっかけに、自分の死生観を改めて考え直してみた。ヒンメルの「人間は二度死ぬ」という思想は美しい。しかし私は、ヒンメルとは少し違う場所に立っている。私たちは勇者ではないからだ。
ヒンメルのセリフと、その文脈
まず、セリフの正確な文脈を振り返っておきたい。
原作コミックス5巻第47話(アニメ第22話「次からは敵同士」での回想シーンだと思われる)。旅の途中、またしても村人のささやかなトラブルを解決しているヒンメルに、フリーレンが問う。なぜそんなに人助けをするのか、と。
ヒンメルは照れくさそうにこう返す。
「もしかしたら自分のためかもな。誰かに少しでも、自分のことを覚えていてもらいたいのかもしれない。生きているということは、誰かに知ってもらって覚えていてもらうことだ」
フリーレンが「覚えていてもらうためにはどうすればいいんだろう?」と聞くと、ヒンメルはこう続ける。
「ほんの少しでいい。誰かの人生を変えてあげればいい。きっとそれだけで十分なんだ」
岡本信彦さんの穏やかで照れを含んだ声の演技が、このセリフに奥行きを与えている。
このセリフはただの名言ではない。ヒンメルの死生観そのものだ。人間の寿命は短い。だからこそ、死んだ後も「記憶の中で生き続ける」ことに価値を置く。各地に自分の像を建ててもらったのも、フリーレンが「未来で一人ぼっちにならないように」と考えての行動だったことが、後に明かされる。
作品全体のテーマは「死と記憶」「長命種と短命種の時間のズレ」「人間を知る旅」だ。2000年以上生きているエルフのフリーレンは、人間の心を理解していなかった。ヒンメルの死後、葬式で初めて涙を流し、後悔する。あの瞬間から、フリーレンの本当の旅が始まる。ちなみに、この作品は私も大好きだが、ヒンメルの葬式でフリーレンが号泣するシーン、素晴らしいとは思うが、フリーレンの人格(エルフ格?)から考えると違和感がある。
さて、ヒンメルは「人は二度死ぬ」を体現している。一度目は肉体の死。二度目は、誰からも忘れ去られる死。だから「知ってもらって、覚えていてもらう」生き方を全力で選んだのだ。
「人間は二度死ぬ」の前提にあるもの
ヒンメルの思想は、「死んだらそれで終わりだ」という「人生一回きり」の死生観に根ざしている。物理的な死で終わるからこそ、二度目の「忘却の死」を回避しようとする。だから「ほんの少しでいい、誰かの人生を変えてあげればいい」が行動原理になる。
この考え方自体は珍しくない。「人は二度死ぬ」という表現は、さまざまな文化に見られるモチーフだ。『ONE PIECE』のDr.ヒルルクの「人はいつ死ぬと思う? 人に忘れられた時さ」もまた、同じ系譜にある。
しかし私は、ここで一つの疑問にぶつかる。
ヒンメルにはこの思想が似合う。勇者だからだ。魔王を倒し、各地で人を助け、記憶に残る行動を日常的に積み重ねることができた。だが私たちは勇者ではない。毎日小さな善行を積み重ねて「誰かの人生を変える」というのは、理想としては美しいが、現実にはなかなか難しい。精神的に追い詰められたとき、余裕を失ったとき、他者のために動く力がどこから湧いてくるのか。
ヒンメルの死生観には、もう一つ、勇者であるがゆえに見えていない視点がある。
私が輪廻転生を確信している理由
それは輪廻転生である。
私は、輪廻転生を信じている。「信じている」というより、もはや確信に近い。
ここでいう輪廻転生は、特定の宗教の教義に基づくものではない。キリスト教やイスラム教のように「世界の終末に一斉に復活する」という話でもなければ、仏教の六道輪廻をそのまま受け入れているわけでもない。神や仏の介在なしに、自然法則的に、人は死んだら次の生に移行する。私はそう考えている。
なぜこの確信に至ったか。
小さな子供が病気で亡くなる。善良に生きてきた人が犯罪に巻き込まれて命を落とす。そういう出来事を「単なる理不尽」としか解釈できなくなったとき、この世界はただの絶望になる。回復の手がかりがない。
そして、回復の手がかりのない世界で人間が合理的に考え始めると、行き着く先は暗い。「人生一度きりなら、自分の利益のために他人を踏みつけたほうが得だ」という結論に、論理的には到達できてしまう。合理的に考えれば考えるほど、他人を傷つける正当化が進む。それは人間社会が長い時間をかけて積み上げてきた文明を破壊する方向に向かう。
輪廻を信じることで、安心感の下で生活できる。先に逝った人たちとは、次の生で再会できる。辛いことがあっても「次で会える」と思えれば、理不尽に耐える力になる。
これは弱さだろうか。私はそうは思わない。安心感がなければ、人は簡単に壊れる。壊れた人間が増えた社会は、もっと壊れる。だから、この安心感には社会的な意味がある。
日本人の死生観と「生まれ変わり」のデータ
私の感覚——輪廻転生を信じている人は案外多いのではないか——は、調査データでも裏付けられている。
ISSP(国際社会調査プログラム)の2008年の調査によれば、日本人の42.6%が「生まれ変わりを信じる」と回答した。これは調査対象33カ国中7位で、国際的に見てもかなり高い水準だ。ちなみに1位は台湾の59.8%、アメリカも31.3%が肯定している。
興味深いのは、「無宗教」を自認する日本人が6割を超えていながら、死後の世界や祖先の霊を感じる人が4割近くいるという点だ。 お盆の墓参りは無宗教層でも7〜8割が実践しているとされる。
つまり「無宗教=死後の世界を信じていない」ではない。日本人は「宗教」というラベルには抵抗を感じるが、輪廻的な連続性を無意識のうちに持っている人が相当数いる。竹倉史人氏が『輪廻転生』(講談社現代新書)で論じているように、「生まれ変わり」の観念は仏教伝来以前から、縄文時代のアニミズム的な世界観にまで遡る可能性がある。これは宗教というより、日本の文化基層に根差した死生観だ。
ヒンメルの美しさと、一般人に必要な「安心感」
ヒンメルの「二度死ぬ」思想と、私の輪廻転生の確信は、対立するものではない。むしろ補完し合うものだと考えている。
ヒンメルの死生観は「今、この一度の人生で、誰かの記憶に残るように生きる」という行動規範を生む。短い命を最大限に輝かせる。それは美しいし、正しい。
だが、その思想だけでは救えない場面がある。
たとえば、幼い子供を亡くした親にとって、「あの子は誰かの記憶に残っている」という言葉がどれほどの慰めになるだろうか。もちろんゼロではない。だが、「次の生で再会できる」「またあの子に会える」という確信のほうが、遺された人間を支える力は大きいのではないか。
フリーレンは1000年以上の寿命を持つエルフだから、ヒンメルの「記憶の中で生き続ける」を長い時間をかけて実践できる。しかし私たちは短命の人間だ。記憶する側もやがて死ぬ。記憶のリレーはいつか途切れる。
だからこそ、輪廻の安心感で日常を補完する。ヒンメルの美学を否定するのではなく、勇者ではない一般人の処世術として、もう一つの柱を持っておく。
「人生一度きり」派への反論ではなく
誤解のないように付け加えておくと、これは「人生一度きり」派を否定する議論ではない。
「人生一度きりだからこそ今を大切に生きる」という思想から道徳やヒューマニズムが生まれることは事実だ。実存主義のサルトルは「人間は自由の刑に処せられている」と言ったが、一度きりの人生に全責任を負うことで倫理が生まれるという考え方には、確かに力がある。
ただ、その「一度きり」の前提が、すべての人に等しく力を与えるとは限らない。理不尽な境遇に置かれた人間が「一度きり」を突きつけられたとき、絶望に転じる可能性は常にある。
心理学の研究でも、死後の世界を信じる人はストレス緩衝効果が高く、幸福感が安定しているという知見がある。これは「騙されている」のではなく、人間の精神が健全に機能するための土台を自ら構築しているということだと思う。
安心感の下で、今日も生きる
『葬送のフリーレン』はただのファンタジーではない。
ヒンメルの「覚えていてもらうことが生きること」という思想は、そのまま現代を生きる私たちへの問いかけだ。SNSの「いいね」で一時的な承認を得ることと、ヒンメルの言う「誰かの人生を変える」ことは、似ているようで根本的に違う。
ヒンメルの死生観は美しい。だが、勇者ではない私は、それだけでは足りない。輪廻転生の確信で補完する。理不尽な出来事に直面しても、「次で再会できる」「先に逝った人たちと、また語り合える」と思えること。それが、この世界を壊さずに生きていくための、私なりの安心感だ。
死生観は人それぞれだ。正解はない。だが、日本人の4割以上が無意識のうちに「生まれ変わり」を肯定しているというデータが示すように、この安心感を共有している人は決して少なくない。
その視点がもう少し広がれば、社会はいくらか優しくなるのではないかと思う。

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