水曜日, 3月 25, 2026

「話しにくい人」は損をする



ある取引先の出版社に、数年にわたって付き合った編集者がいた。向こうが発注し、こちらが受注する関係だ。


その人は決して無能ではなかった。時々ちょっとしたヒットを出す程度の力はあった。野球で言えば、ホームランは打てない。でも二塁打くらいの長打をたまに打つ。1万部、2万部、3万部。ミリオンセラーではないが、出版業界ではそれで十分「打てる人」だ。


出版社の編集者に本当に必要なのは、編集スキルそのものではない。テーマを見つけてきて、切り口を設定するところまでが勝負である。本の整合性や体裁を整える作業は、極論すれば外注に出せる。だが、テーマと切り口だけは、どうしても自分で責任を持たなければならない。


その点において、彼は確かに能力があった。


問題は別のところにあった。


「相談」ではなく「命令」する人


しばらく付き合ううちに気づいたのだが、その人は割合自己中心的なタイプだった。「これ、こうしたいんですけどできますか?」ではなく、「こうしたいんですよ」とはっきり言ってくる。相談ではなく、命令。


まあ、そういう人もいる。こっちは「はいはい」と言って、なるべくイメージを形にするように動いていた。


ところが、何冊か手がけた後、ある頃から無茶を言い出した。そのジャンルにあまり詳しくないのに——いや、詳しくないからこそ——業界では常識とされるものに対しても「これではダメだ」と言い始めたのだ。


こちらはそのジャンルで25年以上やっている。作った本の数も、編集したページ数も、業界トップクラスに近い。もちろん、素人の視点が重要な場面はある。「これじゃわからないですよ」と言われて変更することもある。それは否定しない。


デジタル本における「わかりやすさ」の限界


ただ、ここで一つ急いで付け加えておきたい。


なぜ業界の人間がみんな似たような説明の仕方をするかというと、それが一番簡単に作れて、しかもミスが出ないからだ。簡単に作れるのは作る側の都合だが、ミスなく作れるのは読者にとってプラスである。だから、読者の側にも少しついてきてもらわないといけない。


そもそもデジタル系の話は、万人にわかるようには説明できない。万人にわかるようにしようとすると手取り足取りになる。レシピの本で「これはフライパンです」「塩はなめると辛いです」から説明している本が、あるだろうか。ない。普通はない。


ところがデジタル本には、それをやっている本がそこそこある。もちろん超初心者本の必要性はあるが、すべてが超初心者本である必要はない。それがいいと言うなら、書店に並ぶ本は全部パソコンとスマホの入門書になってしまう。そんなことになったら、売れない本が大量に出てきて、デジタル本を作る出版社は激減する。インプレスと技術評論社とSBクリエイティブと日経BPしか残らない(かもしれない)。


そんな世界=書店は嫌だ。だから、差別化のためにテーマを選ぶわけだ。


原稿が上がってから方針を変える愚かさ


問題の編集者とも、テーマを決めて進めていた。しかしある時から、イメージがあるのかないのかわからない指示が飛んでくるようになった。強制的な言い方。有無を言わせない「これやれ」。


極めつけは、原稿が出来上がってから編集方針を変えてきたことだ。


これがどれほどのコスト増になるか、出版に関わったことのない人にはピンとこないかもしれない。たとえるなら、家を建て終わった後に「やっぱり玄関の向き、逆にして」と言われるようなものだ。壁紙の色を変えるのとは話が違う。


本来はそこで断るべきだった。だが、「まあ、そう言うならしょうがないか」と受け入れてしまった。外注のライターにもかなりの負担をかけた。金銭で解決できる部分はまだいい。ギャラを積めば話は終わる。


問題はその先だ。


コミュニケーションコストが上がるとどうなるか


無理を言われて、仕方なく従う。また無理を言われて、仕方なく従う。一度なら耐えられるが何度も重なると、話をすること自体が苦痛になる。


これが「コミュニケーションコストが上がる」ということの本質だ。


そして何が起こるか。コミュニケーションが取れなくなる。取りたくなくなる。コミュニケーションを取ると必ず不愉快になるとわかっていれば、話もしたくなくなる。それが当たり前の反応である。そんなこともわからない人は、今すぐ社会人を辞めて、幼稚園から人生をやり直せ。


ある時、原稿が上がった後に編集方針を変更されて非常に辛かった。本当はそのとき「これは辛い」と言えばよかった。だが、言わなかった。受け入れてしまった。


以前から依頼されていた企画作成の件もあった。だがその企画が、現在のこの業界でどんな意味を持つのかが、どうしても理解できなかった。理解したくないのではない。わからないのだ。何に使えばいいのかが見えないものを、取材しろと言われても動きようがない。


これも言えばよかった。だが、言わなかった。


締切まで何も言ってこない異常さ


結局、向こうは何も聞いてこなかった。


締切前日まで。何も。


これはおかしい。普通なら「あれどうなってますか?」をもっと早い段階で聞いてくるべきだ。


受注側のコミュニケーションコストが上がって言い出せなくなっているとき、問い合わせるべきなのは発注側だ。命令できる立場の人間が、自分から動くべきなのだ。


私自身、ライターやデザイナーに発注するときは必ず自分から連絡する。必ずだ。100%やる。理由は単純。困るのは自分だから。


仕事がほぼ終わる段階まで黙っていて、土壇場で怒り出す。それはもう、鍋が吹きこぼれて、中身が灰になってからコンロの前に立つようなものだ。最初から見ていろ、という話である。


「黙っていたら自分が困ることは、自分から動け」


前職で何度も言われたことがある。


「メールして返事が来ないなら電話しろ。なんで電話せんのや」


これは前職で学んだ数少ない良いことの一つだ。依頼する側が思った通りのものが上がってこなくて困る。困るのは自分、お金を払う側だ。


怒ったらうまくいくのか。怒ったら原稿がよくなるのか。怒ったらスケジュールが巻き戻るのか。それを考えてから怒れ。


10年くらい社会人をやっていれば普通にわかることだと思うが、出版業界にはそんなことさえ知らないレベルの人間が掃いて捨てるほどいる。


誰も注意してくれなくなる恐怖


もう一つ大事なことがある。


下っ端の時は上司が怒ってくれる。「なんでこんなこともやらないんだ」と言ってくれる。ところが30代、40代と年を取ると、誰も言ってくれなくなる。権力を身につけて、予算を動かせるようになり、人に自分の言うことを聞かせられると思った瞬間から、転落が始まる。


そうなると周りに残るのは、怒られてもヘラヘラしている人間、怒られたことをすぐ忘れる人間だけだ。ちゃんと反論する人は、むしろ離れていく。


ただ、忘れっぽいというのは、実はビジネスにおいては一つの才能かもしれない。怒られたことをいつまでも根に持って覚えていて、いいことがあるか。ほぼない。次から同じ失敗をしないと決めたら、怒られた記憶そのものは捨てていい。


「無理です」と言う


あの一件以来、一つ決めたことがある。


無理そうなことは断る。


「私には能力がなくてできません。今ここで『わかりました』と言えばあなたの気持ちは楽になるでしょう。だから必要なら言いますよ、『わかりました』と。ただし、その約束は実行できません。」


「できなくて困るのは誰ですか。私ではありません。あなたです」


ここまで言うと決めた。ただ、まだこれを口にしたことはない。幸いなことに(?)。


「話しやすい人」か「話しにくい人」か


コミュニケーションの話に戻る。


- 「この人の話は、いつも命令されて終わりだ」

- 「この人に問題を話しても、一緒に解決してくれはしないだろう」

- 「理解してもらうまでに、とんでもない労力がかかりそうだ」


人は、このように感じる相手とは頻繁にコミュニケーションを取りたくなくなる。コミュニケーションコストの高い相手とは、ローリスク・ローリターンな最小限の関係にとどめ、安全な距離を持って、たとえリターンが期待できるとしても冒険はしない。それが真っ当な判断である。


これは心理的安全性の問題である。


心理的安全性とは、「この場でリスクのある発言をしても、恥をかかされたり罰せられたりしない」という感覚のことだ。チームの中に心理的安全性があれば、メンバーは問題を隠さず報告し、意見を遠慮なく言い、失敗から学ぶことができる。逆に、それが欠けていると、誰も本当のことを言わなくなる。沈黙が蔓延し、問題は表面化しないまま肥大化する。


その人と私の間には、心理的安全性を欠く関係ができつつあった。そういうことである。


外注に怒ってばかりの人間の末路


外注に怒ってばかりいると何が起こるか。


外注側がフラストレーションを溜める。そうなると最終的に、突然契約を切られる。重大なミスを黙って隠される。コスト削減も品質向上も提案されなくなる。楽な方を選ぶインセンティブが働く。


「この人の仕事はいい加減にやろう。そのほうが楽だ」


話はできるだけ合わせて、本質的な議論は避けて、大変なことはなるべくやめておこう——こうなる。必ずなる。よっぽどギャラが良ければ別だが。


怒鳴って人を動かそうとするのは、自室の床にガソリンを撒いて暖を取るようなものだ。瞬間的に暖かくなる。しかし、何もかも失うことになる。


フリーランスが仕事を選ぶ「3つの条件」


フリーランスや個人事業主がどの仕事を受けるべきか。3つのファクターがある、と誰かが言っていた。


1. ギャラが高い

2. テーマが自分にとって面白い

3. 相手のことが好き


この3つのうち、2つがなければその仕事は受けてはいけない。


ギャラが高くて相手が好きなら、テーマが微妙でもやる。テーマが面白くてギャラが高いなら、相手が嫌でもやる。ギャラが高くて相手も好きなら、テーマがイマイチでもやる。


逆に言えば——ギャラが安くて、テーマも面白くなくて、相手が嫌い。この三拍子が揃ったら、全力で逃げろ。家で昼寝していた方がマシだ。


以前の問題案件がまさにこれだった。ギャラは安め。テーマもやりたくない。相手は嫌い。やるべきではなかった。


安い仕事を断ったら何が起きるか


安くてしんどい仕事を断ったらどうなるか。その案件は別の編集プロダクションに流れる。同じ条件で。そいつらが大変な思いをする。そして市場には別の仕事が出てくる。出版業界はそういう仕組みだ。


安くても楽な仕事、安くても面白い仕事が出てきたら、そちらをやればいい。


しんどくて、相手も嫌いで、テーマもつまらない仕事を拾ってしまうのは——ゴミ箱から弁当を拾って食べるようなものだ。胃は膨れるかもしれないが、腹を壊す。代償が大きすぎる。


そして、それをやったのが私だった。


他責思考の先には何もない


最後に一つだけ。


組織の中で「人のせいにする」のが処世術として有効な場面はある。それは否定しない。


だが、自分の内面において「周りが悪いから自分は悪くない」という他責思考に陥った瞬間、成長は完全に止まる。「俺は悪くない」は、「だから俺は変わらなくていい」と同義だからだ。


そう生きたければ、どうぞお好きに。あなたの人生だ。ただ、そういう人とは——正直、あまり仕事をしたくない。何をしてもこちらが悪いことにされる相手と付き合い続けるほど、人生は長くない。

 

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